投稿

1月, 2021の投稿を表示しています

「木」が好きだから「木の家」づくりで本領発揮!

イメージ
〜築 45 年の家を雨楽な家にリノベーション〜    皆さま、こんにちは。三河建設のホームページ、そしてこのブログにご訪問くださりありがとうございます。私は社長をしております阿垣剛史と申します。  今回は社長ブログの 2 回目。三河建設が考える日本の暮らしに合う「家」への思い、「木の家」について語ります。    木の見える家が好き。単純な表現ですが、私に「好きな家は?」と問われたら、そう答えるしかありません。とにかく木が好きなので、木の見える家がいい。スギとかヒノキとか、やっぱりいいですね。私自身も大工出身です が、三河建設はもともと大工集団としてスタートしていますから、木造建築が得意。木目が見える、木の風合いを五感で感じられるような家づくりで本領発揮できる工務店です。  私は 16 歳の時に小僧(大工見習い)から始まって、とにかく無我夢中で大工の世界で仕事をしてきました。だから「木を見る目」は負けない、という自信があります。木を見る目と仕事を見る目。それは長年大工をしてきたから自然に磨かれた私自身の財産です。  木の選び方はもちろんですが、技術的にも普通の人がしないような技術で丁寧に仕上げたりします。たとえば、天井貼りでも組み方はいろいろあり、そういう仕事をできる大工が今も三河建設にはおります。  木の見える住宅建築を得意とする弊社は、 15 年ほど前から「雨楽な家」の家づくりに力を注いでいます。雨楽な家は日本の昔からある住まいの魅力が詰まった家で、国産の無垢材をたっぷり使うまさに「木の家」。漆喰壁や土間、深い軒の出、瓦屋根といった日本の暮らしに馴染む要素を組み入れながら、今の生活スタイルにも合うモダンな家でもあります。  家づくりを考えている方のなかには、ネットなどで見て「雨楽な家」に注目されている人も多いことと思いますが、弊社では早くから「雨楽な家」の工務店ネットワークに加盟して、木の家の魅力を広くお伝えしてきました。木の家に憧れる若い世代の方々に注目していただけることにいつも喜びを感じています。    現在、古い家をリノベーションして雨楽な家として再生する「リノベうらく」を工事中です。ぜひ写真をご覧ください。実は、この家は三河建設が 45 年ほど前に建てた家。自分が 25 歳くらいのときで、床柱をたてたという覚えがあります。お施主さまは長く大事に暮らしていら

こんにちは、ブログを始めましたのでよろしくお願いします。

イメージ
地元「三河」に根づいて、地域のために粉骨砕身! 〜大工の小僧から始まった仕事人生〜    皆さま、こんにちは。三河建設のホームページ、そしてこのブログにご訪問くださりありがとうございます。私は社長をしております阿垣剛史と申します。  今回は、愛知県豊田市(旧・西加茂郡藤岡村)で昭和 32 年に創業以来、三河地域で長く仕事をさせていただいている弊社のこと、大工としてスタートした自分のこと、そして私自身の「木の家」への熱い思いなどを、つたない文章ですがお伝えできればと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。    私は愛知県東加茂郡旭町(当時は旭村)で生まれ育ちました。平成 17 年に藤岡町や旭町を含む 4 町 2 村が豊田市に編入合併されましたので、今は豊田市ということになりますが、自然豊かな矢作川の上流の地域で育ちました。兄弟が 9 人で、親父が早くに亡くなったので百姓をしていた我が家は貧しく、私の上の兄 2 人(昭和 5 年、 6 年生まれ)が、当時の藤岡村で建設会社の大工仕事をやっておりました。  私は昭和 35 年に地元の中学を卒業してすぐに、兄たちのところへ連れてこられまして、それが元で大工になりました。   16 歳で大工の小僧(見習い)となったわけですが、最初の頃は自動車も持っていなかったので、瀬戸や豊田の現場へ行くと、ずっと泊まり込みでやっていました。職人の朝御飯、晩御飯などお勝手仕事も私が全部やっていたんですよ。その後 23 歳の時に自分の家をつくり、近くの女房をもらい所帯を持ちました。  小僧時代を含めて若い時分から私はずっと大工をしていて、女房の親戚の家とか座敷とかをやりだしたころに「独立してやってみよう!」ということになりました。私が 30 歳くらいの時です。ところが当時、兄たちは三河建設の会社経営をしていまして「お前が独立したら困っちゃうから、会社に入ってくれ」ということになり、三河建設に役員として入りました。懐かしい思い出です。  三河建設に入ってからも、私はずっと大工をしておりましたが、 40 歳くらいの時には、会社の仕事の大半は私がお客さんからもらってくるという状態になっていました。一番上の兄貴などは早くから仕事を離れてしまったので、いつの間にか会社を仕切るのはもっぱら私、ということになりました。  私にとって、次に大きな転機と